『典座教訓』は曹洞宗の開祖である道元禅師が、お寺の台所をあずかる役職である「典座 (てんぞ)」の心がまえを記した、わが国最古級の料理本です。食材の調達から管理、調理、給仕にいたるまで一切が修行であるという考えのもとに書かれており、宗教書あるいは哲学書といったほうが正しいかもしれません。しかしながら、宗教にも哲学にも無縁でも、理屈抜きで楽しめる不思議な魅力が本書にはあります。
映画などで、食材を手際よく調理するシーンや、食卓にならんだ料理たちをうまそうに食べるシーンを見たりすると、妙に惹きつけられるものがありませんか?そのメカニズムの根底には、本書がいわんとすることが隠されているような気がします。
本書を「料理本」とするのは語弊があるかもしれませんが、そういうわけで「料理番組を見るのがなんか好き」くらいなライトな層 (私も含めて) にもぜひ読んでもらいたい。そんな一冊です。
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『典座教訓』のボリュームはそれほどでもありません。文庫本の紙面で 10 ページくらいです。全 44 段構成で、1 段はだいたい数行程度です。でも原文は漢文で書かれています。よって現代語訳があったほうがいいでしょう。私の手元にあるのは次の 2 冊です。
- 秋月龍珉「道元禅師の『典座教訓』を読む」 (ちくま学芸文庫)
- 藤井宋哲 訳・解説『ビギナーズ日本の思想 道元「典座教訓」禅の食事と心』 (角川ソフィア文庫)
以下、本稿ではそれぞれ「秋月本」「藤井本」と呼ぶことにします。どちらの本も、原文の書き下し文、その現代語訳、訳者による解説が付いています。その上で秋月本には原文 (漢文) が付きます。藤井本には付かないので、原文も読みたいという方には秋月本がおすすめです。
それぞれについて個人的な感想を述べさせてもらうと、秋月本のほうは原文の翻訳・解説にとどまらず、訳者の宗教観や哲学的思想なども広く深く展開されていて、私には難解でした。ただ、初学者を完全に排除しているわけではなく、日常生活のヒントにもなりそうな考えかたや禅問答があちこちにちりばめられていて、むしろ我々がさらなる高みに至ることができるよう手を差し伸べてくれている、そんなスタンスも感じます。『典座教訓』を深く読み込みたいという方にはこちらがおすすめです。
藤井本のほうは、秋月本に比べると初学者向けです。訳者による解説は簡潔で、ざっくばらんで、テンポがよくて、読者に語りかけるかのような特徴ある文章です。訳者自身が典座を務めていたというだけあって、いついつはこんな食材をもらったからこういうメニューにした。とか、誰々は何々をこんなふうにして食った。みたいな経験談を交えながら解説されています。お寺の食事でもカレーやコロッケが出るものとは知りませんでした (肉は抜くらしいけど)。一見全然関係ない話題から入ってそっちに気をとられていたら、いつの間にか原書の解説になっていた、なんてこともよくあって、文章に独特の魅力を感じます。
それから次の書籍は、永平寺 (道元禅師が開いたお寺) で出される食事を一般家庭向けにアレンジした料理がレシピ付きで掲載されており、まさに料理本といった装いです。
- 大本山永平寺 監修『永平寺の精進料理』 (Gakken)
おすすめの教訓
ここからは、典座教訓の中でも特に好きな部分を 2 ヵ所から引いて紹介します。現代語訳は私にはできないのでしませんが、語句の表面的な意味はわかる範囲で注記します。なお、書き下し文は藤井本から引用しています。
まずは第 10 段から。調理器具の整理整頓に関する教えです。
粥時の菜を調うる次に、今日の斎時に用いし所の飯羹等を打併す。盤桶并に什物・調度も、精誠に浄潔し洗灌す。彼此、高処に安くべきは高処に安き、低処に安くべきは低処に安け。高処は高平に、低処は低平に、挟杓等の類の一切の物色も、一等に打併して、真心に物を鑑し、軽手に取放せよ。(後略)
- 粥 (粥座): 朝食のこと
- 斎 (斎座): 昼食のこと
- 飯羹: ご飯と汁物
- 打併: 処理する (?)
- 盤桶,什物,調度: 調理器具
- 挟杓: 箸としゃもじ
- 物色: 器具
- 軽手: やさしく、ていねいに扱うこと (?)
- 取放: 取り出したり、元にもどしたりすること (?)
なんだか、皿も鍋も杓子も、すべての道具がきちんとあるべきところにあって、大将もそれをちゃんと心得ていて、揚げ出しならこれ、焼き魚ならこれ、というふうに手際よく取り出して注文をこなす。その合間にも返ってきた皿をサッと洗ってまたあるべき場所へ。そんな居酒屋のような文章じゃないですか (私だけ?)。粥 (しゅく)、菜 (さい)、飯羹 (はんこう) といった言葉の響きも、質素ながら充実した料理たちがテーブルに並べられているさまを彷彿とさせます。
次は第 12 段、深夜 11 時頃から翌日のお昼頃までの段取りについて書かれています。
三更以前は、明暁の事を管し、三更以来は、做粥の事を管す。当日の粥了らば、鍋を洗い、飯を蒸し、羹を調う。如し斎米を浸すには、典座、水架の辺を離るることなく、明眼もて親しく見て、一粒をも費さざれ。法の如く洮汰し、鍋に納れて火を焼き飯を蒸す。古に云う、「飯を蒸すには、鍋頭もて自頭と為し、米を淘ぐには、水は是れ身命なりと知る」と。
- 三更: 午後 11 時頃から午前 1 時頃までの間
- 做: 作る (?)
- 羹: 汁物
- 斎米: 昼食に使う米
- 水架: 流し場
- 鍋頭: 鍋
- 自頭: 自分自身
- 淘ぐ: 米を研ぐ
こちらは小津映画にでも出てきそうな光景です。かっぽう着を着たお母さんが、米に虫が付いていないか、砂が混じってはいないか、と念入りにチェックする。これでよし。サッと研いで火にかける。炊き上がりを待つあいだにも、魚を焼いたり、たくあんを切ったり、おかずの準備に余念がない。そんなシーンが目に浮かぶようです。また「米を淘 (よな) ぐ」という表現も、お米が清らかな水でていねいに研がれる感じがして好きです (ちなみに秋月本では「米を淘 (え) る」と読んでいます。どちらが正しいのか、あるいはどちらも正しいのか、私にはわかりませんが)。
どちらの文章も最後のほうを読むとわかりますが、単に整理整頓や段取りの話をしているのではなく、それ自体が修行であると言っています。その極意に私が触れることはまずないでしょうが、こういった精神が光となり陰となり日本の豊かな食文化を支えてきてくれたおかげで、それが映画のワンシーンとして顕れたり、そのシーンに誰かが惹きつけられたりするんじゃないかなと思います。