もしあなたが「俺はなんの歴史もない取るに足らないまちに住んでいる」とお感じなら、そんなことはありません。たいていどこのまちに行っても、江戸時代からのその土地の出来事が古文書として残っています。「誰が誰と結婚した」とか、「誰が誰に借金した」とか、「田んぼに引く水のことで隣の村とモメた」とか。もしかしたらその人物はあなたのご先祖様かもしれません。自分にゆかりのある土地で過去に起こった出来事というのは、たとえささいであっても、教科書に載っている歴史よりもはるかにおもしろい。「事件は江戸で起きてるんじゃない」んです。
しかし古文書を学ぶのは、現代人にはハードルが高い。現代人にもわかりやすく伝わるように骨を折ってくれる人、そういう人がいる地域は幸いであります。私が住んでいる飯田市においては、まさに本書の著者である青木隆幸氏がその一人です。こういってはなんだが、飯田に縁のない人が本書を読んでもあんまりおもしろくないかもしれない。でも逆にいえば、あなたの住んでいる地域に本書と同じような試みをしている書があるのなら、それはきっとおもしろいはず。ぜひ手に取って読んでみてください。
概要
本書は「歴史の教科書を閉じてみませんか」と読者に問いかけるところから出発します。歴史の授業で学んだことは一旦忘れて、私たちと同じようにその日、その日を過ごした「殿」や藩士たちに思いをはせる (「殿はえらいんだから、私たちとは違うじゃないか」と思われましたか?本書を読めば、必ずしもそうではなかったことがわかります)。
殿はどんな「その日その日」を過ごしたのか?それを明らかにするために、本書ではおもに次の3つの史料が使われます。
- 『勤向書上帳』: 江戸時代後期の寛政 8 (1796) 年頃の飯田藩の職制と仕事内容を、役職ごとに細かく書き上げたもの。現代でいう勤務規程のようなもの。
- 『耳目抄』: 飯田藩士熊谷家に伝わった史料。飯田藩の日録的な性格の史料で、藩の動きがよくわかる。全 38 冊。
- 『心覚』: 飯田藩士柳田東助が記した日記。
いずれも本書の趣旨にふさわしい、耳寄りな史料だと思います。私もほんの一部を読んだことがありますが、いつかは読破してみたいものです。
なお、本書は著者である青木隆幸氏の「著作集」です。作品の大半は地元の新聞や郷土誌に掲載あるいは連載されたものです。したがって本書のあとがきにも触れられているとおり、文章によって論旨に齟齬があったり、重複があったり、時間関係が前後していたりする点は、読むうえで少し注意が必要です。
以下、私が推す本書のおもしろポイントを3つ紹介します。
おもしろポイント3選
「殿」のお食事
残念ながら、殿が常日頃どんなお食事を召し上がっていたのかは、現代には伝わっていないそうです (もしそういう史料をもってるよーという方は、ぜひ著者までご連絡を!)。ですが、とある年 (弘化 5 (1848) 年) の正月に家臣たちにふるまわれた料理の献立が、『耳目抄』に残されています。殿はもしかしたら食後のデザートがついたかもしれませんが、だいたい同じだったんではないでしょうか。
- 御吸物 鯔 (ぼら) 切目
- 御取物 竹わ (ちくわ) 氷こんにゃく ひしき (ひじき) 小ゑひ (えび) 牛方 (ごぼう)
- 大平物 山鳥 千人参 千牛方
「180 年くらい前にこのへんに住んでいた人たちが、正月にこんなもの食べていたんだ」とわかるだけでもおもしろいですが、お城でご馳走にありついた熊谷さんが家に帰ってから、それをメモ書きに残しておいたというのも、その姿を想像すると可笑しいです。私もなにかの行事でリッチな食事をご馳走になったりすると、日記につけたりすることがあります (笑)。180 年経っても人間の行動ってそこまで変わらないですね。
江戸城での「殿」
著者の目は、飯田における飯田藩/飯田城だけではなく、江戸における飯田藩にも向けられます。
飯田城それだけを見つめていても飯田藩の本当の歴史は描き出せないと思います。藩が江戸で所持していた大名屋敷 (藩邸) も、「飯田城の一部」として重要なのです。そもそも、飯田藩の歳入の七割近くが藩邸で支出されています。藩邸の役割を見つめなければ、「飯田藩のその日その日」は描き出せないと思います。
とりわけ印象的なのが、将軍への謁見などのため、殿が江戸城に登城する場面です。藩邸を発つときに総勢 50 人ほどいたお供の者たちは、大手門下馬所で 10 人になり、下乗橋で4人になり、ついには本丸への入口で殿ただ1人に。お国元では一国一城の主として領民から崇められる殿も、江戸城内では独りぼっち。大勢いる大名の中の一人にすぎません。そういう視点から江戸時代の大名たちを眺めたことはなかったので、新鮮でした。
江戸城の表御殿についた大名たちには、格式 (将軍家との関係) によって控室が割り当てられていました。飯田藩・堀家の場合は「柳之間」。将軍家との関係は「五位、無官の外様大名、交代寄合など」となっており、それほど格式高い感じではなさそうです。それでも、同じような格式・境遇を持つ大名が集まるので、柳之間がちょっとした交流の場になっていたようです。家を継いだ時期が同じだったりすると、会社でいう同期のような間柄だったのかもしれません。同期なら仕事帰りに一杯やることもできますが、大名どうしだとそうもいかないのが残念ですね。
現代との感覚のちがい
本書を読んでいて痛感するのが、(当然といえば当然なのですが) 現代との感覚のちがいです。歴史の教科書でおなじみの参勤交代。飯田藩の場合は伊那街道、甲州道中を通って江戸まで6泊7日。殿は1日中駕籠の中 (馬に乗る場合もあったらしいけど)。飛行機のエコノミークラスのほうがまだましだったんじゃないでしょうか。現代なら飯田から東京まで、エアコンの利いた高速バスに揺られて4時間程度です。
また、飯田藩の場合は、駒ヶ根市と宮田村の境を流れる太田切川が難関でした。現在では鉄道橋やつり橋も含めて7本の橋がかかっていますが、江戸時代は「人取り川」と呼ばれる暴れ川だったそうです。この川が文化圏の境界線になっていたという話を私もきいたことがあります。昔の人が命懸けで渡った川を、現代に生きるわれわれは車で鼻歌まじりに通り過ぎるだけなのだから、幸せなことです。
もうひとつ。本書に『女たちの大平街道』という論考が収録されています。江戸時代、「入鉄砲に出女」ということで女性の移動は厳しく制限されていたはずなのですが、実際は関所を回避する抜け道があったり、それを手引きする業者がいたりしたようです。本書では、関西方面から善光寺参りに向かう女性たちが、木曽福島関所を避けて大平峠を越え、飯田に抜けるようすを描き出しています (善光寺は当時ではめずらしく、女人禁制ではなかったそうです)。志村筇花という京都の女性が、わざわざ遠回りの飯田ルートをとってまで訪れた善光寺での勤行を、次のように詠んだと紹介しています。今なら車で2時間ちょっと。
ぬかずけば 身にしむばかり かしこくて なみだの他に ことの葉もなし
おわりに
冒頭でも触れたとおり、本書は、飯田に特化した書籍です。飯田に縁のない方が読んでもおもしろくないかもしれません。ですが、本書で取りあげられているような「その日その日」が、その土地その土地にあったはず。あなたのまちでそういう本を見かけたら、ぜひ手に取ってみてください。おもしろいと思いますよ。
余談: 青木先生の思い出
ここからは余談なので、ざっくばらんにいこうと思います。私は飯田市美術博物館 (通称「美博」) で毎月開催されている古文書講座に7、8年ほど通っております。本書の著者である青木隆幸氏は 2019 年から 2023 年 3 月まで美博に専門研究員として勤務され、古文書講座でも講師を務めておられました。よってここからは恐縮ながら「青木先生」と呼ばせていただきます。
青木先生から教わったことはいろいろあります。講義のテーマはいつも身近でした。「『丑三つ時』は今でいう何時なのか?」とか、「うな丼は一杯いくらだったのか?」とか、現代のお店の看板に残るくずし字とか。落語の「時そば」も先生に教えてもらいました。そんな中でとりわけ印象に残っているのは「離縁状」です。江戸時代というと、ひとたび嫁に入った女性は生涯、夫と家庭に尽くさなければならなかった。離縁なんてとんでもない。そんなイメージありませんか?実はそんなことはなく、現代のわれわれが考えるよりはずっと自由に離婚していたらしいです。
で、離縁状というのは多少のバリエーションはあるものの、ほぼほぼ定型文になっていて、それを紙にしたためるとだいたい3行半くらいになったものだから、そこから「三行半を突きつける」というイディオムが生まれたんだそうです。これだけでもへぇーですが、まだ続きがあって、あまりにも定型化されすぎていたために、もはや線を 3.5 本引いただけのものをもって離縁状に代えることもあったとか。イメージはこんな感じ:

本当かどうかは知りません。先生が冗談で言ったのかもしれません。でもこの話がとてもおもしろくて強烈だったので、ほかにどんなことを教わったんだったか、ほとんど忘れてしまいました (笑)。青木先生、すみません!