未来のエンジニアたちへ: どんな茶わんを差し上げたら殿さまはお喜びになるだろう?
はじめに
子供のころに描いた絵を大人になってから目にして、「俺ってこんなハイセンスな奴だったの??」とビックリした経験はないでしょうか。自分でいうのもなんですが、私はあります。幼稚園くらいのときに描いたザリガニの絵、ディティールはめちゃくちゃなのに、とても今ではこうは描けないというナゾの迫力がありました。いま同じ題材で描いたら、ディティールばかり気にしてクソつまらない絵になるだろうなと思います。
『小川未明童話集』は、そんな失われてしまった子供の感性で書かれた童話集です。その特徴としては
- 社会の諸問題に通ずるテーマ
- 「光」よりも「影」に寄りそうやさしさ
- 幻想的
などが挙げられます。本稿では、これらの特徴に沿っておすすめの作品を紹介したいと思います。
ところで、本書のほとんどすべての作品に共通する特徴として、「結末を押しつけない」ということが挙げられます。「えっ、それで?」って感じで唐突に終わってしまうんです。最終的にどうなったのか?とか主人公はなにを思ったのか?とかは語られないし、誰が正しいとか正しくないということも決めつけません。こう書くと「子供には難しいんじゃないか」と思われるかもしれませんが、なにかと結論を求めがちな大人たちよりも、むしろ子供たちのほうが結末をさまざまに解釈して楽しんじゃうんじゃないかなという気がします。
社会の諸問題に通ずるテーマ
童話とはいえ未明には、社会にはびこるさまざまな問題を静かに暴露した作品が多くみられます。例えば人間活動の拡大による環境破壊や過激化する抗議活動を風刺した『眠い町』、貧困や児童労働にさりげなく触れる『ある夜の星たちの話』などが挙げられます。ここではもうちょっと身近な問題として、「製品の機能美とはなにか?」という観点から、特に未来のエンジニアたちに読んでほしい『殿さまの茶わん』を紹介しましょう。
ある国に有名な陶器師がいました。厳選した土を使って、一流の絵師が絵を入れ、透きとおるように薄く、美しく焼かれた花瓶や皿は、国内ばかりでなく他国にまで出荷されていました。評判を聞きつけたこの国の役人が、殿さまに献上する茶わんの製作を依頼します。殿さまがお使いになるとあって、腕をふるう陶器師。できあがったのは、それはもう軽くて薄くて、爪ではじけばキーンとよく鳴る上等の茶わんでした。献上された次の日から早速、殿さまの食事にその茶わんが出されたのですが…「熱くて持てん!」
軽くて薄くて、透きとおるように美しく焼かれた茶わん。でもお茶や味噌汁を入れると、熱くてとても持っていられない。果たしてこれはほんとうに殿さまが望んだ茶わんなのでしょうか?
「光」よりも「影」に寄りそうやさしさ
未明の作品には、「南」よりも「北」が、「夏」よりも「冬」が、「雅びた都会」よりも「鄙びた田舎」がよく登場します。未明という人をその作品から勝手に想像するに、おそらく彼は「太陽」よりも「月」みたいな人で、そんな彼が、陽の目を見ない場所でひたむきに生きる人たち (あるいは擬人化されたモノたち) を、やさしく照らしているかのようです。
『負傷した線路と月』はまさにそんな作品です。主人公の「レール」は、汽車が自分を踏んづけていくし、太いくぎで打ちつけられているので太陽に焼かれても日陰に入ることもできないしで、毎日苦しんでいました。ある日、機関車のヤツが自分に傷を負わせていったので、そのことを月に訴えます。月はレールを気の毒に思い、傷を負わせた機関車を探して一言注意してやることにしました。レールから車体番号を聞いて、方々探したところ、とある停車場で休んでいるところを見つけたのですが…機関車自身、毎日重い荷を背負わされて、長い道のりを走り続けさせられて、疲れ果てていました。いったい、悪いのは誰なんでしょう?
そんな本作ですが、ラストはスケールがでかすぎて、いったい何が問題だったのか?誰が悪いのか?私にはまったくわからなくなってしまいました。
幻想的
これまで社会問題だの、光と影だのといってきましたが、やはり童話にはこれが欠かせないんじゃないでしょうか。本書の中でも私が特に好きな『千代紙の春』は、主人公の女の子が、月のきれいな夜に、細かく切った千代紙を窓から投げ散らすシーンが印象的な作品です。この作品、作者がそう意図したのかどうかはわかりませんが、私はこの主人公に対して「ちょっと謎めいていて何を考えているのかよくわからない女の子」という印象を抱いたので、千代紙を投げ散らすシーンがいっそうミステリアスで幻想的なものとして映りました。作中の語り手が女の子を一貫して「美代子さん」とさん付けで呼称しているために、どこかよそよそしさを感じさせること。作中に美代子さんのセリフが一切ないこと。家族が「売りに出された鯉が川に逃げた」という話をしているのに、逃げた鯉の故郷はどんなだろう?家族や友だちと再会できたんだろうか?なんてあさってな方向に思いをめぐらせていること。などが要因かなと思います。でもまあ、このシーンについて理屈をこねるのはなんだか野暮だな、とも思います。
余談
本稿のおわりに余談として、『野ばら』についてもすこし触れたいと思います。『野ばら』こそは私が小川未明を知るきっかけになった作品でして、今もそうなのかわかりませんが、小学校高学年か中学校くらいの国語の教科書に掲載されていました。
あらすじはこうです。2 つの国の国境に、それぞれの国から兵士が 1 人ずつ派遣されて警備に当たっていました。1 人は老人の兵士で、もう 1 人は青年の兵士でした。都から遠く離れたのどかな場所だったので、国や世代は違えど 2 人は仲良くなり、将棋をさしたりして過ごすようになりました。ところが、両国の間で戦争が勃発して、青年の方は前線に向かい、老人の方は 1 人国境に残され…。
戦争が終わり、青年は一応老人のもとへ帰ってくるのですが、2 人の間に決して越えられない隔たりが生じてしまっており、そのために迎える厳かな結末は、子供ながら背筋の伸びる思いで読んだ記憶があります。
いまは小学校の授業でも英語がどうだとかプログラミングがこうだとかやるようですが、やはり国語をおろそかにすることなく、美しい日本の作品を次の世代に引き継いでいってもらいたいものだと切に思います。