「あなたの影、100 兆円で買い取ります」って言われたら…売りますか??
はじめに
爪を切るたび、「このクソの役にも立たない爪の切れ端をお金に換えられたらいいのになあ」と思います。10 万、20 万とはいいません、3000 円くらいで大丈夫です。ところで、これがもし「影」だったらどうでしょう?爪がなければ人間は物を持てないそうですが、影はなくなっても大して困ることもなさそうです。それを 100 兆円で買い取ります、なんて人が現れたとしたら。『影をなくした男』の主人公ペーター・シュレミールがまさにそんな状況に直面します。ひょんなことから知り合った男がシュレミールの「影」をいたく気に入り、なんでも望みの品物と交換してほしいと願い出ます。この薄気味悪い提案を警戒しつつも、金に困っていたシュレミール、金貨をいくらでも取り出せるという「幸運の金袋」を見るや否や、この取引に応じてしまい…。
『影をなくした男』はそんなペーター・シュレミールの数奇な運命を描いた中編小説です。影をなくすとはどういうことなのか?というわかりやすくも奥深さを感じさせるテーマを軸に、前出の「幸運の金袋」、かぶれば姿を消すことのできる「隠れ蓑」、1 歩歩けば 7 リーグを進むという「七里靴」など奇想天外なアイテムも登場し、エミール・プレートリウスによる躍動感あふれる挿絵が華を添える、悲劇的メルヘンといった感じの一冊です。
とりわけ私がおもしろいと感じたポイントを 3 つ紹介します。
その 1: 影とはなにか?想像や妄想をめぐらす
「はじめに」でも書きましたが、本書には「影をなくすとはどういうことなのか?」という単純ながらも奥が深いテーマがあります。「影をなくすとはどういうことなのか?」これをもう自分勝手にいろいろ想像したり妄想したりしながら読み進めるのがただただ楽しいです。例えば、
「影ってなにかのメタファー (隠喩) なんだろうか?」
「自分だったら 100 兆円と引き換えに、見ず知らずの怪しい男に自分の影を売り渡したりするだろうか?」
「影を失うことによるデメリットはなにかあるだろうか? (いや、ない)」
「もし近所の人がそんな目に遭っていたとしても、案外気がつかなそう」
といった感じで。
その 2: 影を失ったことに対する投げやりないいわけ
大金と引き換えに自分の影を失ったときからシュレミールの悲劇が始まります。影がないばかりに街ゆく人々には蔑まれ、一世一代の恋には破れ、従者には裏切られ、挙句その従者に婚約者を奪われる羽目に陥ります。これらの出来事がシュレミール自身の口から悲劇的に語られるのですが、悲劇であるがゆえに?彼が影を失うことになった事情を人々にいいわけする場面が笑えてしまうんです。
例えば p.63、婚約者の父親から影をなくした理由を問い詰められる場面。大事な娘を影を持たない男なんかに嫁がせるわけにはいかない、というわけです。彼はこう答えます。
「先だってのことですが、ある乱暴者がいきなり私の影を踏みつけましてね、大きな穴をこさえてしまったのです――だからただ今、修理に出しているところなのですよ。金さえ出せばもとどおり、きれいにつくろってくれるそうで、昨日にもとどけてくれる手筈になっていたのですがね」
また p.104 では旅の途中、森の中でたまたま出会った農夫と親しく言葉を交わしながら歩いていたのが、日向に出てしまったことで秘密がばれ、ドン引きされる場面でのいいわけ。
「悪い病気にかかっちまってね、長患いをしているうちに髪も爪も影も抜け落ちてしまったのさ。髪の方はなんとかふたたびはえてくれたのだがね。ほら、じいさん、こんなふうでしてね、まだ若いのにまっ白でしょう。爪だってこんなに短い。ところが影ときたら、抜け落ちたまんまで全然はえてくれないのだよ」
この投げやりな感じがいい (笑)。
その 3: 作者界隈の裏事情
そしてここが個人的に一番好きなポイントなんですが、本作品は主人公のシュレミールから作者のシャミッソーへ宛てられた手記という体になっています。また、本編とは別に 3 通の短い手紙が添えられており、それぞれシャミッソーよりヒッツィヒ宛、フケーよりヒッツィヒ宛、ヒッツィヒよりフケー宛、となっています。つまりシャミッソー、ヒッツィヒ、フケーという実在の人物 3 人に加え、作中の人物であるシュレミールも加えた 4 人の間で交わされた体の文書がこの作品を構成している、というわけです。実在と架空、事実と創作の境界があいまいになって、この奇想天外な物語があたかも現実にあった出来事なんじゃないかと錯覚させる効果を生んでいます (こういう形式を「書簡体小説」と呼ぶそうです)。
ところで、訳者によるあとがき『ペーター・シュレミールが生まれるまで』によれば、この作品は 1813 年の夏から秋にかけて友人であるヒッツィヒの家に滞在していたシャミッソーが、退屈した子供たちにせがまれるまま書いたものであり、その原稿を 2 人の共通の友人であるフケーにあずけたところ、フケーが勝手に刊行してしまった、という裏事情があるようです。
これらの手紙は実際に交わされたものではなく、シャミッソーによる創作だと思うのですが、だとすると『フケーよりヒッツィヒ宛の手紙』に書かれている次の記述 (p.128) は、作品を勝手に公にしてしまったフケーに対するとんでもない皮肉であり、フケーはさぞかしばつが悪かったのではないかと想像します。
出版された本というのは奇妙な守護神に見守られているもので、まま見当ちがいのところにまいこみはしても、とどのつまりはしかるべき人の手に落ち着くさだめになっている。いずれにせよ、その守護神はまこと精神と心情のこもった作品に対して目にみえない帳の紐をにぎっており、すこぶる巧妙にそいつを開け閉めする術を心得ているものだ。だからして親愛なるシュレミールよ、ぼくは君の微笑も涙も、この守護神にゆだねることにしたのです。
頭を空にしてシュレミールとともに数奇な運命に身をゆだねるもよし、考察を深めるもよし、2 日くらいあれば読破できる程度の分量なので、GW なのになにもすることがない!という方はぜひ。