1 行目で挫折してしまった人に贈る一葉作品の宣伝文
はじめに
2024 年 7 月をもって五千円札の顔のお役目から解放された樋口一葉。彼女の作品は「雅俗折衷体」「擬古文」などと呼ばれる古風な文体で書かれていて、現代に生きる我々にはとっつきにくいものです。でもそれを乗り越えた先にある、現代文で書かれた作品からは摂取することのできない余韻や感動をぜひ味わっていただきたいと思いまして、どの作品から読めばいいのか?どうすれば「擬古文」を苦行から愉しみに変え、彼女の作品を味わうことができるようになるのか?を私なりに考えてみました。
最初に読むなら
本稿のタイトルにあるとおり、『十三夜』『大つごもり』がおすすめです。理由は
- どちらも短編、文庫本で 20 ページくらいの適度な分量
- 作品の雰囲気はなんとなく似ているのだが、読後感はまったく正反対
ということで、比較的軽めの負担で、一葉らしい悲壮感の漂う作品と、一葉には珍しいほっこり系の作品を両方とも味わうことができるからです。両作品には次のような共通項があり、なんとなく雰囲気が似ているなあと思います。
- どちらも「月」に関係するタイトル
- 上下 2 部構成
- 主人公は貧しい家から資産家の家へ嫁いだ (または奉公に出た) 女性
- 資産家の家に主人公の天敵がいる
- 両親 (または親代わりの伯父・伯母) が常に主人公の味方をしてくれる
- 弟 (または義理の弟) がいる
一方で、読後感はまったく異なります。私が抱いた感想なり感情なりを思いつくまま列挙すると、(どっちがどうとここで言うのは控えますが) 一方は「モヤモヤ」「矛盾」「階級社会に対する静かな怒り」であり、もう一方は「痛快」「粋」「主人公の窮地を救ったヒーローに対する賞賛」といった感じでしょうか。
あらすじ
十三夜
貧しい家に生まれながら、ひょんなことから資産家の男・原田 勇に見初められて玉の輿に乗ることになったお関。太郎という跡取りも生まれて、順風満帆のはずだった。だが次第に夫は妻につらく当たるようになる。召使たちのいる前で叱られたり、学のないのをなじられたり。堪りかねたお関は実家に戻り、婚家での冷遇を涙ながらに両親に訴える。だが離縁となれば太郎は母なしの子、原田の世話で職を得た弟・亥之助の立場も危うい。関の話を黙って聞いていた父、「お前の言いたいことは親が察する、弟も察する。涙はみんなで分けて泣こう。だから今日のところは堪えて帰ってくれ」と諭す。父の言葉に、原田に戻り太郎を守る決意を固めた関。その帰途、思わぬ再会が彼女を待ち受けていた。
大つごもり
父親を亡くし、伯父・伯母の元に預けられていたお峯は、資産家・山村の家に奉公に出る。はじめのうちこそ水くみの際にすっ転んで備品の手桶を壊してしまうなど失敗の連続で、鬼の御新造 (若奥様のこと) に叱られる日々だったが、その後は努力を重ね、世間から「あれに酷く当たらば天罰たちどころに、この後は東京広しといへども、山村の下女に成る物はあるまじ」といわれるまでになる。一家総出で芝居見物に出かけるという師走のある日、お供するはずだった峯はこれを辞退し、病に倒れた伯父を見舞う。伯父は商売ができなくなり、一家は貧乏町の裏屋に引っ越し、家計はわずか 8 才の義理の弟・三之助が支えていた。借金の借り換えのため、大晦日までに山村から金二両借りられないか、と相談を持ち掛ける伯父。峯は「むづかしくはお給金の前借にしてなり願ひましよ」とこれを請け合うが…。
一葉の作風
さて、すでに書いたように、一葉の作風は「擬古文」と呼ばれる文体が特徴で、古文に親しむべくもない現代人を寄せつけないものとなっています。例えば『十三夜』の冒頭はこんな感じです。
例は威勢よき黒塗り車の、それ門に音が止まつた娘ではないかと両親に出迎はれつる物を、今宵は辻より飛のりの車さへ帰して悄然と格子戸の外に立てば、(後略)
初めて一葉を読んだときの私は、最初の 1 行で読むのをやめたくなりました。どこで文章が切れるの?地の文とセリフが混ざってない?主語は…?
で、どうすれば読めるようになるのかという話は後でするとして、とりあえずこの部分を適当に意訳すると次のようになります (間違えているところもあるかもしれません、あったらすみません)。
本当なら黒塗りのベンツをおかかえ運転手に運転させて、威勢よく実家の玄関先に乗りつけるはずだった。「お、車の音が玄関前で止まったぞ、娘が孫の顔を見せに戻ってきてくれたか」なんてお父さん、お母さんに歓迎されて。なのに今夜は流しのタクシーをそのへんで捕まえてここまで来た。二人になんて説明したらいいんだろう、と立ちつくす。
ちなみに現代人ばかりでなく、明治の読者にとっても一葉の作風はとっつきにくいものだったようです。『樋口一葉と歩く明治・東京』 (小学館) には、当時の新聞小説においてもわかりやすくて読みやすい大衆ものが求められたために、半井桃水が一葉の和文調を改めさせようとしたことが書かれています。
もう一ヵ所、『大つごもり』から引用します。お峯が伯父の家に見舞いに行く道中、義理の弟・三之助にばったり出会う場面です。
(前略) 影も見えぬに落胆して思はず往来を見れば、我が居るよりは向ひのがはを痩ぎすの子供が薬瓶もちて行く後ろ姿、三之助よりは丈も高く余り痩せたる子と思へど、様子の似たるにつかつかと駆け寄りて顔をのぞけば、やあ姉さん、あれ三ちやんで有つたか、さても好い処でと伴はれて行くに、酒やと芋やの奥深く、溝板がたがたと薄くらき裏に入れば、三之助は先へ駆けて、父さん、母さん、姉さんを連れて帰つたと門口より呼び立てぬ。
地の文とセリフが混ざろうとも、主語がころころ変わろうとも、かまわず読点でどんどんつないでいます。読みづらいといえばそうなんですけど、なんだかスピード感があると思いませんか?しかもこのスピードの中で、弟がちょっと見ないあいだに背丈が伸びたこと、にもかかわらず十分な食事が摂れないために痩せてしまったこと、病に倒れた父のために薬を買いに出る孝行息子であること、などがさりげなく描かれています。
こんな感じの古風な文体と、それに加えて一葉のセンスももちろんあると思いますが、それらのおかげで余計な言葉が削ぎ落されて文章にスピード感が生じています。そのために物語に悲壮感が漂う場合でも変にウェットにならず、ドライで粋でいられるのだと思います。そしてそういう中だからこそ、一葉が感情を込めたたった一文が余計に際立つのだと思います。『たけくらべ』で美登利が信如を何時までも見送るシーンなんかは、まさにそのような効果によって生まれたのではないでしょうか。
一葉の「擬古文」に親しむ方法
で、どうすれば一葉の作品を味わうことができるようになるのか?についてですが、ここまでだいぶ長くなってしまったので簡単にまとめます。身も蓋もない話ですが、
- 何回も繰り返し読む
- 現代語訳と照らし合わせながら読む
これに尽きます。古文の成績が 2 だった私がそうなので請け合います。現代語訳を参照しながら繰り返し読むことで、ストーリーがだんだん理解できるようになり、原文で省かれてしまった行間を脳が勝手に補間してくれるようになります。上で紹介した十三夜の冒頭も、これらの方法を実践してストーリーを大ざっぱに把握していたので、正確ではないにしてもだいたいの意味が理解できたのです。そして繰り返しになりますが、その先にあるのは口語体で書かれた現代の文章からは得がたい余韻と感動です。
『十三夜』の現代語訳としては、河出書房新社『現代語訳 樋口一葉 十三夜 他』に篠原 一の訳が収録されています。また、『大つごもり』に関しては山日ライブラリー『現代語訳 樋口一葉 ゆく雲・たけくらべ・大つごもり』に秋山佐和子の訳が収録されています。その他にも探せば多数出版されているものと思います。
余談
ここからは、本稿を書くにあたり両作品を再読した際に、私が勝手に妄想したことを書き留めておこうと思います。多少ネタバレがあるかもしれませんが、結末には影響しないと思います。一応あえて改行・箇条書きを避けたりして、読みづらいようにしておきます (笑)。妄想というのは、『大つごもり』は『十三夜』の続編なのではないか?ということです (初出は『大つごもり』のほうが先ですが)。これには説が 2 つあって、説 1 は、『十三夜』でのお関の子・太郎の成長した姿が『大つごもり』の石之助なのではないか?とする説です。関はとっくに離婚して実家で静かに暮らしており、その母に楽をさせるために、太郎 (石之助) は放蕩を装って父から金をせしめている。説 2 は、お関が『大つごもり』での山村の御新造と同一人物であるとする説です。『十三夜』で太郎を守る決意を固めた関が覚醒し、鬼の御新造として君臨。石之助は勇が別の女に産ませた子ということにしておきます。でも説 2 (お関 = 御新造) をとるとすると、金二両の借用を願い出たお峯の窮状をお関が理解しないはずはないので、個人的には説 1 を推したいと思います。