インドの IT 企業が開いた日本語教室。クラスの問題児デーヴァラージのたりない日本語に笑い、日本語にならない心の声に涙する
はじめに
そこまで読書が好きというわけでもないので、芥川賞の受賞作が発表されても、おもしろそうなら読んでみようかなといった程度なんですが、本作は私にはめずらしく芥川賞を受賞する前から読んでおり、好きだった作品です。ストーリーにはいろいろな要素が絡んでいるので、おすすめポイントを一言でまとめるのがとても難しいのですが、二言でまとめるなら冒頭に書いたようになるかと思います。今回はそんな『百年泥』を紹介します。
『百年泥』の紹介
とある事情により日本語教師に仕立て上げられ、インドの IT 企業で日本語を教えることになった「私」。インド・チェンナイに送り込まれて三か月半が過ぎたころ、近くを流れるアダイヤール川が氾濫。三日後、水が引いたので、川向うにある会社に向かうために「私」は橋を渡ろうとします。そこは百年に一度の大洪水の名残を見物せんとするやじ馬たちで身動きが取れないほどにごった返していました。「せんせい、おはようございます」声をかけてきたのは、クラスの中でも特級の問題児・デーヴァラージ。彼は交通違反のペナルティとして、橋の上に取り残された泥やがれきなどの撤去作業を科せられていたのでした。デーヴァラージが泥の中から熊手で何かをかき出すと、それはなぜか「私」にはとても見覚えのある「山崎 12 年」のボトルで…。
『百年泥』は唯一の現実である「なされたこと」と、その裏側にある「なされなかったこと」をテーマに物語が展開します。なされなかったことというのは例えば「寡黙なクラスメイトが、私になにか話しかけようとしたけど結局話さなかった話題」とか「死んでしまった友人が、もし死んでいなかったら私と過ごしたかもしれない時間」とかですね。なされなかったがゆえに、それをどう捉えるかはその人次第です。
なのでデーヴァラージが泥の中からかき出したボトルは、「私」にとっては元夫と離婚するきっかけになった因縁のボトルなのでした。夫が浮気していることを、夫の行きつけのスナックのママから聞き出した「私」は、当てつけに自分も別の男と付き合い始めます。高校で社会科を教え、俳句サークルの顧問、女性とスナックに行くと<別れても好きな人>のデュエットを強要し、次回までに<忘れていいの>を覚えてきてと CD を渡すような男。夫がキープした山崎 12 年のラベルに、その男が黒のマジックでつまらない川柳を吐いたのでした。この密会がウワサ好きのママにより夫まで届き、2 人は離婚します。間もなく高校教師とも別れて、<忘れていいの>が歌われることはありませんでした。
本作はこのように、デーヴァラージが泥の中から何かを掘り出すと、それから想起された「私」の記憶や思考が次から次へとうつろい、その中でインド社会の現実、チェンナイの街の活気、日本語教室での授業風景、登場人物たちの内面や過去などが描かれる、という形で進行します。そこにあるはずのないアイテムががれきの中からこともなげに転がり出てくる描写と、それにつづく「私」のとりとめもない思考のうつろいによって、読者はなにが現実でなにが非現実なのかわからない世界に放り込まれます。でもそれがなんだか心地いい。遊園地の中を連れまわされて、次は何に乗るんだろう?とワクワクしているような、そんな気分で読み進めることができる作品です。
デーヴァラージのたりない日本語と心の声
さて、本作において私が最大の見どころだと思うのが、デーヴァラージの、カタコトな日本語でコミカルに装われた外面と、その下に隠されてしまった内面とのギャップです。本作のテーマは「なされたこと」の裏にある「なされなかったこと」であるという話をしましたが、このテーマを念頭において物語全体を俯瞰すると、作者は実に周到かつ辛抱強く布石を打ってこのギャップを際立たせているなあと思います。
本作の特に序盤、中盤では、なんちゃって教師を完全になめてかかる問題児たちのようすがとても生き生きと描かれています。例えばユーチューブの日本語講座の話題になったとき、ある生徒の「わたししりますしります!『レッツスピークにほんご!』、このみちゃんのかわいいんですから!」という発言を火ぶたに、各々勝手に「どの番組のどの子がかわいいか」を主張しだします。
いったいその手の番組はいくつあるものか、このみちゃんの名前が挙がったとたん教室が沸騰、
「いいえ!いいえ!『はなそうにほんご』にあやのちゃんかわいいです!」
とガネーシャがさけび、
「ダメです!ちがいます、『にほんごだいすき』にアイリンちゃんかわいいからです!」
ムルガーナンダンがさらに大きい声でさけび、混戦模様を呈しかけたところへデーヴァラージがひと言、「シッ!」という警告音を発すると同時に人差し指を立てるしぐさで一同の気をひきつけておき、おもむろに、
「『いっしょににほんご』のゆりかちゃんが、この中で、いちばんかわいいです」
作者の石井遊佳は、自身ネパールやインドで日本語教師を務めた経験があるそうですが、実際にこんな問題児たちに手を焼いていたのかもしれませんね。また、デーヴァラージが家族について訊かれて答えるシーンは、笑い事ではないのに不謹慎ながら笑いを禁じ得ません。
「父はうちにいませんでした。母はこどもをうみました」
と言う。つづけて、こともなげに添えた説明が、
「父はいちねん、くににいませんでした。わたしといっしょにりょうこしました」
りょこうです、タミル語話者は母音の長短に頓着しないためこの種の発音間違いが異様に多い。口で訂正しながら私の手はほとんど自動的にうごいてホワイトボードに、
「父は一年国にいませんでしたが、母は子どもをうみました」
と書く。
禁じ得ないんですが、このあたりからデーヴァラージの家庭の事情や、デーヴァラージ自身へと焦点が移りはじめます。彼が自身の家族についてひとしきり説明したあと、ふいに「せんせい、<その人はほとけさまにぐよあげてくれました>、このぶんはいいですか?」と質問します。「ぐよ」が何を指すのか、見当もつかない「私」はその話題を適当に切り上げてしまうのですが、そのときふと思います。彼は「供養」といいたかったのかな?と。
私はここが本作の重要な転換点なのかなと思います。デーヴァラージが「供養」などという日本語を知っているはずがあるのか?彼が伝えようとして伝えられなかったことは何だったのか?その答えは物語の終盤、デーヴァラージが泥の中からすくい出した古くて小さなコインによって明らかになります。これまでに泥の中から登場したアイテムは、いずれも「私」に縁のあるものたちでした。でもこの古くて小さい 1970 年大阪万博の記念コインは、デーヴァラージと、彼の母と、彼の恩人である日本人旅行者に因縁のコインだったのです。デーヴァラージが日本語では伝えることができなかった彼の内面を、「私」は彼の心の声として聞くことになります。
ちなみに、なぜ「私」はデーヴァラージの心の声を聞くことができたのか?なんだかオカルトチックで非現実的じゃないか、と思われるかもしれません。これに対しては、デーヴァラージが伝えられなかったことは「なされなかったこと」なのだから、それを「私」が泥の中のコインから想起して勝手に解釈した、という説明が成り立つかもしれません。でも、別の場面でデーヴァラージが掘り出したアイテム「人魚のミイラ」と、そこから「私」が想起した母の思い出によって、そのあたりの経緯もていねいに描かれていることから、やはり「私」は本当にデーヴァラージの心の声を聞いたのだと思います。