高野文子『ふとん』 (白泉社『絶対安全剃刀』収録) 感想

「死は生よりもたっとい」とは夏目漱石が『硝子戸の中』で書いた言葉であります。死は人間として達し得る最上至高の状態なのではないか?と。「死ぬのは怖いもの」「できるなら迎えたくないもの」ではなかったの?私には衝撃の死生観でした。そういわれれば、死というのは貴賤や善悪に関係なく誰にでも訪れるもの、という点で公平です。そういう観点で世の中の作品を眺めると、実にさまざまな死生観があるものだなあと思わされます。とりわけユニークだなと思ったのが、今回紹介する高野文子の短編漫画『ふとん』です。

この作品の主人公は、幼くして亡くなった女の子です。最初の 1 コマ、がらんとしただだっ広い部屋の真ん中で、女の子が手足を投げ出してごろんと横になっている。障子を隔てた向こうの廊下に人の影が見えたかと思うと、10 人ばかりの大人たちが列をなしてやってくる。母親と思しき 1 人の女性が部屋に入ってきて、女の子を仰向きに直し、足をそろえ、手は胸のあたりで組ませてから、また部屋を出る。大人たちの影がみんな正座をしたかと思ったら、障子が全部はじけ飛ぶ。

こうして女の子の「お祝い」が幕をあけました。女の子、むくりと起き上がって「どしたの?」。でも目の前に座っているお父さんもお母さんもお婆ちゃんも、うつむいたままで応えてくれません。「はじまるよ」背後から声が聞こえて振り向くと、そこに立っていたのは「かんのん」でした。観音様は女の子の衣装を変えたり、紅をさしたり、甲斐々々しく「お祝い」の身支度を整えてくれるのですが。「かんのん」と女の子のやりとりは、ほっこりするのになんだか悲しい…

「わたし あんたきらい ちゃんに おこられるもん あんたの掛軸かけじくに さわると ちゃん おこるもん」「しかられるのやだもーん」
「だれももうおまえのこと しかったりしないよ」

はじめのうちは婆ちゃんに怒られたことを根に持ってかんのんを敵視する女の子。でもかんのんが「ほしいものなんでもあげるよ」というと、そこは子どものこと、ちょっとだけ警戒心が解けて、参列者たちが食べている料理に目が行きます。

「あのね おなか すいたの ごはん 食べたいな」
「ごはんなど いらないよ おまえもう おなかすかなく なったんだもの」

それでも食べるんだといって、かんのんにご飯をよそわせます。調子に乗って、お酒にも目をつける。

「ねえねえ かんのん あのね」「あれが 飲みたい」「赤い杯 ほしかったの」「おさんの お酌で 飲みたかったの」

女の子がかんのんにも杯を渡してお酒を注ぐと、そこからこぼれた五つのしずくから桜の木が生えてきます。五色の桜の花びらが舞うなかでの野辺送り。参列者たちがかつぐ棺桶の上で女の子が舞っている…。読むほうは、「ああ、この子が行ってしまう」と切ない気持ちになるのに、本人は至って無邪気なのが、この作品の残酷なところなんですよね。お父さんやお母さんのほうを振り向きもせず、最後はかんのんに「めりんすぶとんほしいな」なんておねだりするし。

映画『タンポポ』では、臨終を迎えた妻を夫が無理やり起こしてチャーハンを作らせるシーンがあります。「母ちゃんが作った最後のご飯だ、あったかいうちに食べろ」と子供たちに食わせ、自分も泣きながらかっ込む夫。それをみて安心したのか、ほほえみを浮かべながらこと切れる妻。

鳥居みゆきには、ちんどん屋に扮した鳥居がお葬式の宣伝をするという「妄想葬儀」というコントがあります。「葬式葬式お葬式の宣伝だよ/ただの葬儀じゃございません/前代未聞のお葬式/絢爛豪華なお葬式だよ/場所は新宿駒劇ツーデイズ/ちけっとぴあでナウ・オン・セール!」

どちらも「死」に関して私が好きな作品です。でも、そのどちらとも違う。泣けもしない。笑えもしない。あるいは泣けもするし、笑えもする…のかな?不思議な、でもとても印象的な作品です。